人間は、自分がおかれた意味世界を懸命に行きながらも満足や納得のいく結果を得ることは容易ではない。不本意、不条理、おろかさ、みじめさ、悲しみ、怒りで世界は充ち満ちている。そもそも、なんで生まれて何故死ななければならないのか、それがすべてのヒトの大問題である。ユーモアは、そうした難題や矛盾を抱えて生きている人間を意味への貼り付きから引きはがし、自分と世界を他者の視点、別の視点から見ることを可能にする。
ユーモアは、笑いの力を用いて、「死」に先駆ける人類の高等技術である。名誉や権威を笑いで無化するのはみずから「余剰」を死ぬことであり、苦悩や苦境を無化するのは「欠如」を死ぬことである。図式の破れ目から、「無」に脱出する笑いの力が、名声やその欠如のような社会的幻覚のリアリティから人間を自由にするのだ。
四半世紀前に笑えない笑いの仮説を提案した。笑いとは、1)ズレて、2)ハズレて、3)ヌケて、4)アフレるところのものである。ズレるのは、「図式(シェーマ)」、つまりモノゴトあるいはデキゴトを捉える認識のメガネである。このメガネをかけると、デキゴトは「~として見える」。この「~」は「予期」をもたらすので、図式はデキゴトに先回りしてしかるべき対応をとることを可能にする。しかし、このメガネはしばしばオリともなる。「~として見ていた」ものが、「~としてしか見えなく」なるのだ。図式化による世界の自明性が、退屈という文明の病いを生み出す。
似ていて違うものに直面したとき、図式が「ズレて」、精神は混乱する。この混乱を避けるために、回路を「ハズして」しまうのが、笑いの核心的なメカニズム(負荷脱離)である。痴漢かとおもったら電柱だった、とわかった瞬間、闇夜でひとり笑うだろう。これがハーバート・スペンサーのいう「ズレ下がり」で、落差が余剰化して笑いとなる。逆のばあい、つまり「こんなところに電柱が、でも痴漢かも、」という時は、笑っている場合ではない。「ズレ上がり」なので驚いて逃げださなければならない。
図式のズレから生まれる笑いは、メガネ=オリである世界をただのおかしな「カラッポ」にしてしまう(「ヌケる」)。笑いは、数学の演算における「0(ゼロ)の機能」、コンピューターでいう「再起動」に等しい力をもつ。ところで、笑うとき何が溢れるのか?それまで図式につまっていたもの、図式に備給・充填されていた「荷重出力」(フロイト-スペンサーの「心的エネルギー」、現代風にいうと割り当て「メモリーの量」)である。それはどのような物質であり信号であるのか、その回路もメカニズムも未知であるが、そのような伝達物質が存在することは疑いえない。なぜなら、笑いによって癌や膠原病が治ることもあるからである。笑いによってアトピー症状が改善することも、木俣医師が報告している。笑いによって放出される余剰出力は、なんらかの神経生理的チャンネルを介して有機体の免疫機能に影響を与える、と考えざるをえない。
ところで、この備給エネルギーは、図式表象系の「リアリティ」を構成する、という非常に精神的な動作領域をもっている。多少哲学的に、それはイメージをリアリティでみたす存在の媒質である、といってもいいだろう。とすれば、笑いの負荷脱離で図式から脱けだして周辺回路に溢れだす(「アフレる」)のは、まさにこの存在の媒質であったところのものである、ということになる。
存在を存在たらしめるまさにその力、そのエネルギーが「神」だとすれば、笑いは存在を「神」の手から解放するといえるかもしれない。いや、むしろ、笑いは、存在のくびきから神を解放する、というべきだろう。笑いは、それまで存在としてリアルに感じられていた図式を空っぽにして、そこに封入されていた媒質を、閉じこめられていた「気」を、一気に解放して惜しげもなくまき散らす。笑いによって溢れるものは、実は存在の媒質であったところのものであり、あるところのものであり、したがって、あるであろうところのものである。笑いによって解放される溢れる無とは、神そのものであり、神の力であり、神のもうひとつの姿なのだ。笑いにおいて神は「躍動する無」(久松真一)のかたちをとって現われる、といえる。私たち研究グループは、この「無」のエネルギーを横隔膜の振動量で測るおかしな機械(「横隔膜式笑い測定機」)を開発中である。「無」の単位は“aH”にした。
1948 ~ 2009
京都大学文学部卒、関西大学社会学部教授。専門はコミュケーション論、理論社会学。「日本笑い学会」理事。独特の口髭を誇りに思っている。フジテレビ系列「トリビアの泉」出演経験あり。あるとき3時間笑いつづけて、「笑いの統一理論を思いつく。(『笑いの社会学』世界思想社・絶版)。独自の勝手な視点から「笑う四面体」「ユーモアのキューブ」などおかしな理論モデルを真面目に考えた。
主著 『笑いの社会学』(世界思想社) 『視線と「私」』(弘文社)